虚無

記録用です。需要はありません。

春の雨

 

一日、どっと疲れた。

特に疲れた日は、仕事帰り、近所のラーメン屋で、明太子トッピングを頼む。明太子には疲れを麻痺させるパワーがある。

アパートの階段を登ろうとしたら、いい感じの水たまりができていて、「ぱちゃ」と音が鳴った。私のパンプスが、夜のありとあらゆる光に照らされて、黒く浮かび上がった。「愛してる」と思った。

この、どうにもできない現実を、愛してる。

最近うちの部署は業績が悪くて、存在価値すら問われるような部署で、上司は部下の私の前で平気で転職しようかな、とか言う。優秀な人はみんな外に出ていく。私の尊敬していた、かつての支社長も辞めたらしい。今日の商談も失敗した。

でも、水たまりが綺麗だった。
それは、かつて好きだった人の瞳に似ていた

私は、明日も会社へ行く。
頼れるものなんて、もう何もなかった。

多様性なんてクソくらえ【感想文】

「好きなことで、生きていく」

 

将来どんな大人になろうか、考えているようで考えていなかった、人生のモラトリアムで、あの目をつんざくような鮮やかな看板が渋谷のど真ん中に掲げられたあの日から、20代の僕らは「好きなことで生きていかなければならない」呪いをかけられたと思っている。

 

テレビとYouTubeのどちらがおもしろいかとか、義務教育を受けないで好きなことに熱中する子供とか、そのうち「多様性」なんて言葉が出てきて、誰が何をやっていようが認めなければいけない空気感をつくった。誰のせいだろう。

 

学歴も、収入も、中くらいの両親のもとに生まれた私は、両親のような生き方しか知らなかったから、中くらい努力して、中くらいの大学に入って、中くらいの会社に就職した。人生のモラトリアムを経て、数年が経つと、「やりがいのある仕事をしろ」「得意を活かせ」「多様性だ」などという同調圧力はさらに強まっていた。まるで、やりがいのない普通の仕事をしているぼくが悪者みたいに言わないでくれ。多様性はどこにいった。

 

ところで、多様性を認めるというのは、ずいぶん危険性を孕んだ都合のいい言葉だなと思う。

普通じゃない色を認める。

腫れ物を腫れ物扱いしない。

できないことを責めない。

昔は、会社の常識に、世間の常識に、矯正してくれる「大人」がいたが、今はもういないのだろう。ぼくたちはそういうチャンスを失った世界で生きている。自分を押し殺す術を教えられなかったサラリーマンというのは結構痛いなと思う。我ながら。

 

「何者」かにならなければ、きっともうこの世界では生きていけないのだろう。

「多様性を認める」の「多様性」のなかに

仲間入りしなければ、誰も認めてはくれないのだろう。

 

 

「どうにか、なる。」

・自分をコントロールするのではなく、コントロールできないときの受け皿を用意しておく。


上振れと下振れを理解する。

ここまでやったら疲れるな、→じゃあ休もう。

これくらいならできるから、→続けよう。

 

・謎のモチベーションで優しくしてくれる人はいる
 
「なんでこの人、こんな私によくしてくれるんだろう。申し訳ない。私も成果出さなきゃ・・・。」ってやるとドツボにはまるので(実際はまった)、
「なんでこの人よくしてくれるんだろう。謎のモチベーション(資質や価値観)があるんだろうな。」と流す。大丈夫。
 
 
・無能の烙印を押しても押さなくても仕事は進んでいません。
 
仕事ができていないと自分が無能な気がする→落ち込む→寝込む→さらに進まない。まじで意味ない。私が私に無能の烙印を押そうが、押さまいが、仕事は進まないし、できるようになりません。せっかくなら明るい気持ちで取り組んだほうが成果はあがります。
 
 

・今、ダイレクトに効果のあることをする。

 

目標を立てて努力できるのは、目標に近づいているという快感が得られるから。

目標に向かって努力するよりも前に、今、日常生活のなかで、資質の理解を通じて、アクションできることだって、もっとたくさんある。

「やるべきこと」が多すぎて血迷っていたので「今ダイレクトに効果のあること」(ストレッチやったら仕事はかどりそう、早く寝たら次の日仕事はかどるな)をする。タスクを削る。

 

自分メモ

できるようになりたいこと

・議事録ちゃんと綺麗にとれるようになりたい

・数字の処理能力あげたい

・先輩みたいに上手にお客さんと喋れるようになりたい

 

果てしなかった「できないこと」が、なんか意外と自分の資質使ってなんとかなりそうじゃんと思えた朝。

「あなたは来期、1円も売上をあげられないと思う」と上司に言われた話

「あなたは来期、1円も売上をあげられないと思う」

 

マネージャーにそう言われた。

 

多くの人は、傷付くのだろうか。悲しいと思うのだろうか。否定されたと思うのだろうか。

 

たしかに、わたしも、傷付いた。怖かった。不安だった。でもそれと同時に、嬉しかった。

 

なぜか。

 

ずっと、

「もう完璧だね」「あなたならできるよ」「優秀だね」

 

そう言われてきた。

 

そうじゃない。

足りないところを教えてほしい。間違っていることを教えてほしい。わからないからやり方を教えてほしい。

ずっとそう言い続けた。

 

けれども、私を否定してくれたのは、マネージャー、ただ一人だった。

ダメなところを、嘘偽りなく、ストレートに伝えてくれたのは、マネージャーただ一人だった。

 

ほかの人も、気遣いや、優しさもあったんだろう。ネガティブなフィードバックをされたら心が折れる私の弱点を見抜いてくれたのかもしれない。ありがたい。感謝だ。

 

でもこの人たちは、来年私が売上をあげられなかったとき、助けてはくれないんだろう。

あれだけ教えたのに、どうしてできないの、と私に責任転嫁するんだろう。

 

わたしにとって、やさしさとは

 

「その人の人生に責任を持つことだ」

 

厳しいことを言うのが優しさだ、なんて昭和のおじさんみたいなことを言うつもりはない。

 

肯定したり、寄り添ったり、認めたりすることが、その人のためになるなら、それは本当のやさしさだと思う。

 

でも、そうでないなら、それはたぶんやさしさじゃない。責任放棄だ。

 

続けてマネージャーはこう言った。

「でも」

「売上をプレッシャーに思うな。基本的なことができていないから、それをやれ。」

 

私は「優しいですね」と答えた。

 

「でも、売上あがらなかったら、おまえの居場所はないよ」と言われたけど、

 

一年後にはどちらにせよ辞めるつもりで、居場所なんか作る気はないと思っていることすら、

なんとなく、見透かされたような気がした。

わたしが価値観ピラミッドに込めた思いのようなもの

価値観ピラミッドできあがった・・・。長かった・・・。

 

できあがって、思いました。

 

「なんだこの自意識過剰中二病ピラミッドは・・・。」

 

オンラインイベントとかで、「〇〇さんの価値観ピラミッドはどんな感じですか?」とお話する場面も少なくないので、そういうときは、

「学び」→「アップデート」→「フラット」→「感化」→「前進」

と言うようにしてます。意味はほぼ同じです。初対面の方に、この激痛ピラミッドを共有するわけにいかないので・・・。

 

じゃあなんでわざわざ突飛な言葉にしてあるか、その理由を書こうと思います。

 

まず土台となる「文学」について少しだけお話させてください。

辞書的な意味で言えば、「文学」とは、”言語によって表現された芸術のこと"、"人の感情や情緒に訴える芸術作品"です。

人の感情や情緒に訴える作品、という意味では、本も、映画も、ニュースも、法律も、人との会話も、誰かが書いた文章も、全部「文学」だと、ここでは捉えています。

つまり、常に言葉に触れている状態と定義しました。

そこからのつながりは自己理解プログラム受講者の方なら、なんとなくご想像していただけるかなと思います。

 

私はこれまで、いろんな言葉に感化されて、救われてきました。

世界の色が変わる瞬間を経験しました。

固定観念が破壊されることで、踏み出せた一歩がいくつもあります。

 

価値観ピラミッドを作っているとき、

いろんな人の価値観ピラミッドを参考にさせてもらって、

いろんな言葉をあてはめてみて、

でも、そのどれも自分にしっくりきませんでした。

たぶんそう思いながら価値観ピラミッドと対峙している受講生さんは私だけじゃないと思います。

 

そこから、なんとか自分らしいところに近づけていって、「文学」「破壊」「フラット」あたりを捻出して。

 

最後まで苦戦したのが、頂点の価値観でした。

当初候補としてあがっていたのが「救済」と「前進」でした。

「感化」された先で、一歩を踏み出せたらいい、救いがあればいい、そんな思いがありました。でもなんかしっくりこなくて。

 

そのときに「1」という数字を思い付きました。

 

一筋の光が見えればいい、

最初の一歩が踏み出せればいい、

成果(一番)が出せればいい、

最善の一手を打てればいい、

 

そういうのを全部まとめて「1」にしたら、なんだか妙にしっくりきて。

 

それと、もうひとつ理由があって、

私は最初、価値観を、前向きで、明るい行動をイメージさせる動詞や名詞から探していました。だから最初は「前向き」とか「向上」とか「光」とか入れてました。でも自分そんなに明るいくて前向きな人間じゃないしな、とか思って(笑)

 

価値観ピラミッド=前向きな言葉を使わなければいけない

っていう、そういう自分自身の思い込みをぶっ壊したかった。

 

別に、数字でもいい。記号でもいい。外国語でもいい。人の名前でもいいかもしれないし、土地とか、食べ物の名称でもいい。それが自分らしいと思えるなら、それで一歩前に進めるなら。

 

STEP3で、「なんか自分にしっくりこないなー」って悩んでいる方が、もっと自分らしい言葉(別に変に奇を衒う必要はないです)に出会うきっかけになってくれたら、こんなに幸せなことはないです。

 

なぜならそれが、私のピラミッドの頂点の価値観だからです。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

M-1グランプリ2023感想のようなもの

彼らがトップバッターでネタを披露したとき、「優勝だろうな」と思った。

ほかのコンビのネタ見てないのにね。

 

2023年、本屋大賞に凪良ゆうさんの「汝、星のごとく」という作品がノミネートされた。

私は「汝、星のごとく」を読み終えたとき、「獲るんだろうな」と思った。

ほかのノミネート作品読んでないのにね。

 

M-1を見ていて、本屋大賞の記憶が蘇ってきた。

今日はそのときの話をしようかと思います。

 

「汝、星のごとく」を読んで、これが大賞だろうなと直感的に思って、実際に選ばれたとき。

予想が当たって嬉しいとか、面白い作品に出会えた感動とか、全然そういうのじゃなくて。

「獲らないでくれ」と思った。のを憶えている。

 

たとえば、M-1でいうと、ラストイヤーとか、下積みが長かったとか、その日凄くはまったとか、時代の空気感を反映しているとか、社会の痛いところを突いてるとか、新しさとか、伝統とか。

 

人は何かを評価しようとするとき、どうしたって、既存の指標と比べるしかなくなる。

指標より秀でていれば、それが「獲るべき理由」になる。

 

獲るべき理由があるとき、私は安心する。

だって、私にはそれが無かっただけだと、納得できるから。

 

でもさ。

 

獲るべき理由が特段ないのに、獲ってしまったら、

 

それはもう、本物の才能だと、認めなくちゃならない。

 

凪良ゆうさんの作品を読んだとき。

令和ロマンの漫才を見たとき。

 

まっさきに彼らが、獲らなくてもいい理由、を、頭の中に思い浮かべた。

 

「去年も受賞したんだし」「まだ5年目なんだし」

 

獲らなくてもいい理由が真っ先に出てくるなんて、

浮かんでくるうきわを無理やり水の中に沈める行為みたいだ。

 

情けない。情けないってわかってる。それでも沈めたくなる。

 

こんなものおそらく私が一生努力しても無理なんだろう、という残酷な事実を目の当たりにするのが怖くて。

 

だから彼らを「スーパースター」と呼ぶ。

 

彼らがスーパースターなら、私がスーパースターじゃなかっただけで、私に才能がなかったわけじゃない。そう思いたいから。

 

どうしてこの子だけいつも、その場の主人公になってしまうのだろう。

そして、どうしてこの子は、うさんくさい物語も、本物の実力も、そのどちらをも兼ね備えているのだろう。

きちんと努力をしているならば、それだけにとどめていてほしい。

 

円のことをずるいと腐すためには、円は悲しみの演技でしか力を発揮してはいけなかった。(中略) 愛や幸せに満ちた表現まで胸に響くならば、それはもう、紛れもなく、円の努力と実力なのだ。

 

これは私が好きな朝井リョウさんの「スペードの3」の一文です。

 

獲らなくてもいい理由が、売れなくてもいい理由が、認められなくてもいい理由が、思い浮かんだとき。

たぶんそれは彼らが「本物の才能」を持った人なんだと、私はいつもかなしくなる。

 

本物の才能を認めるときの恐怖。

 

いつか、私も、「あいつはなんか認めちゃだめな気がする」って、良い意味で粗探しされたいなと思うのです。

 

おめでとうございます、スーパースター。

日記のようなもの

小説読む時間削って、仕事のための本読んでるとき。自宅のパソコンのログインパスワード、間違えて会社のパスワード打ち込んだとき。オンライン会議で、偉いおっさんが喋って、画面に映し出された社員たちが、口角をにゅっとあげて笑ってるのをみたとき。私は死にたくなる。生きてる意味を見失いそうになる。

 

支店にいたとき、なんでみんなそんなにやる気ないのって思ってた。必要以上のことは覚えようとしない。自分の仕事はここまでと線を引く。だから頑張った。人一倍仕事を覚えたし、自分の仕事以外のことも覚えた。効率化するために改善策も考えた。

 

そうして、運良く、本部へ異動した。

 

そこには私より遥かにレベルの高い人たちがいた。私がやろうとして、できなかったレベル上げを当然のようにしていた。焦らなくていいと言われた。実際、焦って詰め込んで折れたことがあったから、たしかにと思った。

 

みんなきっと仕事が大好きで、仕事が一番で、レベル上げを好んでしていて、だからたくさん残業している。私は定時で帰る。今度は、私が「やる気のない社員」なんだろうか。私が散々「なんでそんなにやる気ないの」と蔑んできた、あの人たちのように、本部の人には、私がそういう風に映ってるんだろうか。やる気のある、なしって、やる気の度合いが勝った側の尺度で決まるのかも。

 

勉強しない人たちだらけだったら、1時間勉強した人はやる気がある。でも3時間勉強する人がいたら、1時間しか勉強しない人は、やる気がないって思われる。質とか中身とかいう問題は一旦置いておくとして。

 

だったら。

 

ああ、たぶん違う。全ては結果だ。

 

残業しないで1億売る人と、60時間残業して1000万円しか売れない人。どっちがやる気があるかなんて明白だ。

 

結果が全てを凌駕する。そんな、どうしようもない結論が出たので、今日の日記のようなものは終わりにします。

 

でも、あれですね。どうでもいいことにこそ、無駄なことにこそ、価値が宿る人生で在りたいですね。過程が大事、とは言わないから、死にたくなった夜だけが、人生の価値だといいな。