「好き」と言わずに、「好き」を表現する。
ー彼の瞳。
凝縮された悲しみが、目の奥で結晶化されて、微笑むときでさえ宿っている。本人は気づいていない。光の散る笑み、静かに降る雨、庇の薄暗い影。
存在するだけで私の胸を苦しくさせる人間が、この教室にいる。さりげないしぐさで、まなざしだけで、彼は私を完全に支配する。
ー彼だった。
ーやめてよと手を払いのけそうになったけど、でもどうしてもできなかった。
ー彼は風邪を引くと、筒状にした手を口にあてがい、ごほ、ごほ、と重い咳をした。その音が教室の隅の咳から聞こえてくると、耳をそばだてて、次の咳を待ちわびた。彼の存在を濃く感じられるのが、うれしかったから。
ー私は今、いらだっている。私がこんなにかき乱されているのに、彼は私にほんの少しの関心も寄せない。
ー彼の名前をノートに書いて、上からシャーペンで黒く塗りつぶす。
ーさっき塗りつぶした名前が一番、私の胸を焦がす。その独特の響きを、声には出さず、唇の上だけで発音して楽しむ。甘い響き。
ーささやかな粗を見つければ見つけるほど、彼の身体に愛着がわく。細部すべてに唇をつけて、味を、匂いを、ぎこちなさを、けずり取りたい。
「女の計算」と「敗北」について
ー少しでも彼の気を惹きたくて、さりげなくさまざまな小細工を試みる。数式を熱心に解くふりをして、指で髪を耳にかき上げる。耳たぶで揺れるジルコニアのピアスに透明に光りかがやく粒、手首の内側に塗ったコットンキャンディの甘い匂いがする香水、目尻のつけまつ毛。さくらんぼ色に塗った唇は、自然な赤みが差しているはずだ。解けない、難しいとぶりっこするのは封印して、全力で集中し教えてもらった通り数式を解いて、彼に頭の良さを認めてもらう。意味ありげな視線と控えめだけど確実にうれしそうなはしゃぎぶり、はにかみを込めた笑い声をもらす。
ー彼が表情を明るくして話にのってきたから、もっと盛り上げたくて私が笑顔でまた口を開きかけると、彼はまたちょっとこわばり、顎を引いてノートに目を落とした。彼は少しでも長く私と話していたいなんて、露ほども思っていない。
自分らしく在ることの暴力性について
ー「私を好きになってほしい。私のものになってほしい。おかしいって分かってるけど、もうどうしても止まらない。」
ー「おれは、おまえみたいな奴が大嫌いなんだよ。なんでも自分の思う通りにやってきて、自分の欲望のためなら、他人の気持ちなんか、一切無視する奴。おれが気づいていないとでも思ったか?」
ー私が気付いているのは、ちゃんと覚醒をしているのは、今しかない。今しかこの恋の真の価値は分からない。人は忘れる生き物だと、だからこど生きていられると知っていても、身体じゅうに刻みこみたい。
綿矢りさ著『ひらいて』より抜粋