「好きなことで、生きていく」
将来どんな大人になろうか、考えているようで考えていなかった、人生のモラトリアムで、あの目をつんざくような鮮やかな看板が渋谷のど真ん中に掲げられたあの日から、20代の僕らは「好きなことで生きていかなければならない」呪いをかけられたと思っている。
テレビとYouTubeのどちらがおもしろいかとか、義務教育を受けないで好きなことに熱中する子供とか、そのうち「多様性」なんて言葉が出てきて、誰が何をやっていようが認めなければいけない空気感をつくった。誰のせいだろう。
学歴も、収入も、中くらいの両親のもとに生まれた私は、両親のような生き方しか知らなかったから、中くらい努力して、中くらいの大学に入って、中くらいの会社に就職した。人生のモラトリアムを経て、数年が経つと、「やりがいのある仕事をしろ」「得意を活かせ」「多様性だ」などという同調圧力はさらに強まっていた。まるで、やりがいのない普通の仕事をしているぼくが悪者みたいに言わないでくれ。多様性はどこにいった。
ところで、多様性を認めるというのは、ずいぶん危険性を孕んだ都合のいい言葉だなと思う。
普通じゃない色を認める。
腫れ物を腫れ物扱いしない。
できないことを責めない。
昔は、会社の常識に、世間の常識に、矯正してくれる「大人」がいたが、今はもういないのだろう。ぼくたちはそういうチャンスを失った世界で生きている。自分を押し殺す術を教えられなかったサラリーマンというのは結構痛いなと思う。我ながら。
「何者」かにならなければ、きっともうこの世界では生きていけないのだろう。
「多様性を認める」の「多様性」のなかに
仲間入りしなければ、誰も認めてはくれないのだろう。