男が書いた小説を読んで吐いたことがある。
正確には、男の描く「女」に、頭痛がして、途中で読むのをやめた。
世の中には2パターンの人間がいて、
自分をとりまく世界は、つらいことや、苦しいことばかりだけど、どこかに希望が転がっていると信じてる人と、
自分をとりまく世界は、基本的には平穏だけど、どこかに、どうしようもなく、目を背けたくなるほどの暗い現実が必ず存在すると疑わない人。
前者のほうが楽観的で、後者のほうが悲観的なように見えるけど、実は反対なんじゃないかと思う。
目に見えないものを信じるのが夢見がちな女で、
過程や感情よりも、結果や論理を重視するのが男のような通説があるけど、
実際は逆なんじゃないかと思う。
男のほうがよっぽど運命や希望を信じたがるし、
女のほうがよっぽど現実的なことに目を向けたいんじゃないかと思う。
佐藤正午原作の「月の満ち欠け」という映画を見ました。
普段は女の描く作品しか見ない私なのだけど、ちょっといろんな視点から物事を見てみたくなって、普段見ない映画に挑戦した。「月の満ち欠け」を見る前日に、アニー・エルノー原作の「あのこと」を見た。
やっぱり、女の描く作品には、共感できるし、没頭できる。だけど、男の描く作品は、どこかずっと他人事というか、その作品に入り込むというより、ずっと線を引いて俯瞰的に見てしまう。これは私が女だから当たり前なのだけど。
ああ、男ってこんな風に女が見えているんだ、と。
現実の女は、傘を貸してくれた男に、「優しいんですね」と言って去っていかないし、男がもう一度会いたいと願った女と再会したその日に、ほいほい家にあがりはしないし、なかなか手を出せないでいる男に、キスをしたり、そのまま服を脱ぐようにせがんで自分からベッドに入ってくれたりはしない。ましてや、そんなことをしてくれる有村架純はいない。
笑いそうになった。
作品をばかにしているわけじゃない。これはほんとうに。
ただ、女という生き物に、男が望むことの、現実の見えてなさというか、少女漫画の展開を真に受ける女を馬鹿にするのと同じ感覚なんだと思う。
そういえば「明け方の若者たち」も、そうだったな。
あなたがいればなにもいらないよ、という空気を纏い、かと言って完全に自分のほうを振り向いてくれなさそうなミステリアスな雰囲気。それは、女が既婚者だから、ただそれだけ。やっぱり男の人ってNTRが好きなのかな。月の満ち欠けも、人妻だったし。
雨に濡れて困っていて、傘を貸せば「優しいんですね」と言って去っていってくれて、自分から好きです、会いたいですとは言ってこないけど、機会は用意してくれて、家にあるもの(それはペットなのか、本なのか、絵なのか、写真なのか)を見たいなと言ってくれて、会った初日に家に上がり込んでくれて、一歩踏み出せないでいると、自分からキスをしてくれて、「あなたと居られれば何もいらない」と言ってくれて、君の喜ぶ顔を見られるならどこへでも連れていってあげるという台詞からは、するりと抜けて、自分の手中にはおさまってくれない人妻の有村架純。もしくは、自分が口説いて落としたと思っていた彼女が、実は裏では「私のほうが彼が好きだったの、内緒よ」と娘に話す柴咲コウか。
これが、私が、男が書いた小説を読めない理由のすべてだと思う。これが悪いとか、悪くないとかではなくて、「男に都合よく書かれる女が、気味が悪すぎる」という解釈に過ぎず、これは作品に対する賛辞でもあるので許してほしい。
だけど、私は、物凄く貴重な体験をしているような気もする。誰かにとって、一生忘れられないような映画のシーンを、誰かの価値観の根底に鎮座するような作品を、驚くほど、冷静に、俯瞰的に見られている。
私の人生のバイブルになってる小説や映画も、ほかの誰かが見たら、滑稽すぎて、笑えてくるのだろう。
他人事として、客観的に見るか、自分事として、没入して見るか、それは作品と自分が、
世界のどこかに転がっている、一筋の光を探しているのか、
世界のどこかに転がっている、目を背けたくなるほどの暗い現実を探しているのか、
そのどちからということによるのかもしれないなということを考えていました。
私は完全に後者で、
私の人生は、どうしようできない現実を目の当たりにするためにあり、それをどうにかするためにあり、だけど結局すべてのことはどうにもできないという最悪を知るためにあるのだと思っているタイプのひとです。
よくわからなくなってきたのでおわりにします。