彼らがトップバッターでネタを披露したとき、「優勝だろうな」
ほかのコンビのネタ見てないのにね。
2023年、本屋大賞に凪良ゆうさんの「汝、星のごとく」
私は「汝、星のごとく」を読み終えたとき、「獲るんだろうな」と思った。
ほかのノミネート作品読んでないのにね。
今日はそのときの話をしようかと思います。
「汝、星のごとく」を読んで、
予想が当たって嬉しいとか、
「獲らないでくれ」と思った。のを憶えている。
たとえば、M-1でいうと、ラストイヤーとか、
人は何かを評価しようとするとき、どうしたって、
指標より秀でていれば、それが「獲るべき理由」になる。
獲るべき理由があるとき、私は安心する。
だって、私にはそれが無かっただけだと、納得できるから。
でもさ。
獲るべき理由が特段ないのに、獲ってしまったら、
それはもう、本物の才能だと、認めなくちゃならない。
凪良ゆうさんの作品を読んだとき。
令和ロマンの漫才を見たとき。
まっさきに彼らが、獲らなくてもいい理由、を、
「去年も受賞したんだし」「まだ5年目なんだし」
獲らなくてもいい理由が真っ先に出てくるなんて、
浮かんでくるうきわを無理やり水の中に沈める行為みたいだ。
情けない。情けないってわかってる。それでも沈めたくなる。
こんなものおそらく私が一生努力しても無理なんだろう、
だから彼らを「スーパースター」と呼ぶ。
彼らがスーパースターなら、私がスーパースターじゃなかっただけで、私に才能がなかったわけじゃない。そう思いたいから。
どうしてこの子だけいつも、その場の主人公になってしまうのだろう。
そして、どうしてこの子は、うさんくさい物語も、本物の実力も、そのどちらをも兼ね備えているのだろう。
きちんと努力をしているならば、それだけにとどめていてほしい。
円のことをずるいと腐すためには、円は悲しみの演技でしか力を発揮してはいけなかった。(中略) 愛や幸せに満ちた表現まで胸に響くならば、それはもう、紛れもなく、円の努力と実力なのだ。
これは私が好きな朝井リョウさんの「スペードの3」の一文です。
獲らなくてもいい理由が、売れなくてもいい理由が、
たぶんそれは彼らが「本物の才能」を持った人なんだと、
本物の才能を認めるときの恐怖。
いつか、私も、「あいつはなんか認めちゃだめな気がする」
おめでとうございます、スーパースター。