虚無

記録用です。需要はありません。

「あなたは来期、1円も売上をあげられないと思う」と上司に言われた話

「あなたは来期、1円も売上をあげられないと思う」

 

マネージャーにそう言われた。

 

多くの人は、傷付くのだろうか。悲しいと思うのだろうか。否定されたと思うのだろうか。

 

たしかに、わたしも、傷付いた。怖かった。不安だった。でもそれと同時に、嬉しかった。

 

なぜか。

 

ずっと、

「もう完璧だね」「あなたならできるよ」「優秀だね」

 

そう言われてきた。

 

そうじゃない。

足りないところを教えてほしい。間違っていることを教えてほしい。わからないからやり方を教えてほしい。

ずっとそう言い続けた。

 

けれども、私を否定してくれたのは、マネージャー、ただ一人だった。

ダメなところを、嘘偽りなく、ストレートに伝えてくれたのは、マネージャーただ一人だった。

 

ほかの人も、気遣いや、優しさもあったんだろう。ネガティブなフィードバックをされたら心が折れる私の弱点を見抜いてくれたのかもしれない。ありがたい。感謝だ。

 

でもこの人たちは、来年私が売上をあげられなかったとき、助けてはくれないんだろう。

あれだけ教えたのに、どうしてできないの、と私に責任転嫁するんだろう。

 

わたしにとって、やさしさとは

 

「その人の人生に責任を持つことだ」

 

厳しいことを言うのが優しさだ、なんて昭和のおじさんみたいなことを言うつもりはない。

 

肯定したり、寄り添ったり、認めたりすることが、その人のためになるなら、それは本当のやさしさだと思う。

 

でも、そうでないなら、それはたぶんやさしさじゃない。責任放棄だ。

 

続けてマネージャーはこう言った。

「でも」

「売上をプレッシャーに思うな。基本的なことができていないから、それをやれ。」

 

私は「優しいですね」と答えた。

 

「でも、売上あがらなかったら、おまえの居場所はないよ」と言われたけど、

 

一年後にはどちらにせよ辞めるつもりで、居場所なんか作る気はないと思っていることすら、

なんとなく、見透かされたような気がした。

わたしが価値観ピラミッドに込めた思いのようなもの

価値観ピラミッドできあがった・・・。長かった・・・。

 

できあがって、思いました。

 

「なんだこの自意識過剰中二病ピラミッドは・・・。」

 

オンラインイベントとかで、「〇〇さんの価値観ピラミッドはどんな感じですか?」とお話する場面も少なくないので、そういうときは、

「学び」→「アップデート」→「フラット」→「感化」→「前進」

と言うようにしてます。意味はほぼ同じです。初対面の方に、この激痛ピラミッドを共有するわけにいかないので・・・。

 

じゃあなんでわざわざ突飛な言葉にしてあるか、その理由を書こうと思います。

 

まず土台となる「文学」について少しだけお話させてください。

辞書的な意味で言えば、「文学」とは、”言語によって表現された芸術のこと"、"人の感情や情緒に訴える芸術作品"です。

人の感情や情緒に訴える作品、という意味では、本も、映画も、ニュースも、法律も、人との会話も、誰かが書いた文章も、全部「文学」だと、ここでは捉えています。

つまり、常に言葉に触れている状態と定義しました。

そこからのつながりは自己理解プログラム受講者の方なら、なんとなくご想像していただけるかなと思います。

 

私はこれまで、いろんな言葉に感化されて、救われてきました。

世界の色が変わる瞬間を経験しました。

固定観念が破壊されることで、踏み出せた一歩がいくつもあります。

 

価値観ピラミッドを作っているとき、

いろんな人の価値観ピラミッドを参考にさせてもらって、

いろんな言葉をあてはめてみて、

でも、そのどれも自分にしっくりきませんでした。

たぶんそう思いながら価値観ピラミッドと対峙している受講生さんは私だけじゃないと思います。

 

そこから、なんとか自分らしいところに近づけていって、「文学」「破壊」「フラット」あたりを捻出して。

 

最後まで苦戦したのが、頂点の価値観でした。

当初候補としてあがっていたのが「救済」と「前進」でした。

「感化」された先で、一歩を踏み出せたらいい、救いがあればいい、そんな思いがありました。でもなんかしっくりこなくて。

 

そのときに「1」という数字を思い付きました。

 

一筋の光が見えればいい、

最初の一歩が踏み出せればいい、

成果(一番)が出せればいい、

最善の一手を打てればいい、

 

そういうのを全部まとめて「1」にしたら、なんだか妙にしっくりきて。

 

それと、もうひとつ理由があって、

私は最初、価値観を、前向きで、明るい行動をイメージさせる動詞や名詞から探していました。だから最初は「前向き」とか「向上」とか「光」とか入れてました。でも自分そんなに明るいくて前向きな人間じゃないしな、とか思って(笑)

 

価値観ピラミッド=前向きな言葉を使わなければいけない

っていう、そういう自分自身の思い込みをぶっ壊したかった。

 

別に、数字でもいい。記号でもいい。外国語でもいい。人の名前でもいいかもしれないし、土地とか、食べ物の名称でもいい。それが自分らしいと思えるなら、それで一歩前に進めるなら。

 

STEP3で、「なんか自分にしっくりこないなー」って悩んでいる方が、もっと自分らしい言葉(別に変に奇を衒う必要はないです)に出会うきっかけになってくれたら、こんなに幸せなことはないです。

 

なぜならそれが、私のピラミッドの頂点の価値観だからです。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

M-1グランプリ2023感想のようなもの

彼らがトップバッターでネタを披露したとき、「優勝だろうな」と思った。

ほかのコンビのネタ見てないのにね。

 

2023年、本屋大賞に凪良ゆうさんの「汝、星のごとく」という作品がノミネートされた。

私は「汝、星のごとく」を読み終えたとき、「獲るんだろうな」と思った。

ほかのノミネート作品読んでないのにね。

 

M-1を見ていて、本屋大賞の記憶が蘇ってきた。

今日はそのときの話をしようかと思います。

 

「汝、星のごとく」を読んで、これが大賞だろうなと直感的に思って、実際に選ばれたとき。

予想が当たって嬉しいとか、面白い作品に出会えた感動とか、全然そういうのじゃなくて。

「獲らないでくれ」と思った。のを憶えている。

 

たとえば、M-1でいうと、ラストイヤーとか、下積みが長かったとか、その日凄くはまったとか、時代の空気感を反映しているとか、社会の痛いところを突いてるとか、新しさとか、伝統とか。

 

人は何かを評価しようとするとき、どうしたって、既存の指標と比べるしかなくなる。

指標より秀でていれば、それが「獲るべき理由」になる。

 

獲るべき理由があるとき、私は安心する。

だって、私にはそれが無かっただけだと、納得できるから。

 

でもさ。

 

獲るべき理由が特段ないのに、獲ってしまったら、

 

それはもう、本物の才能だと、認めなくちゃならない。

 

凪良ゆうさんの作品を読んだとき。

令和ロマンの漫才を見たとき。

 

まっさきに彼らが、獲らなくてもいい理由、を、頭の中に思い浮かべた。

 

「去年も受賞したんだし」「まだ5年目なんだし」

 

獲らなくてもいい理由が真っ先に出てくるなんて、

浮かんでくるうきわを無理やり水の中に沈める行為みたいだ。

 

情けない。情けないってわかってる。それでも沈めたくなる。

 

こんなものおそらく私が一生努力しても無理なんだろう、という残酷な事実を目の当たりにするのが怖くて。

 

だから彼らを「スーパースター」と呼ぶ。

 

彼らがスーパースターなら、私がスーパースターじゃなかっただけで、私に才能がなかったわけじゃない。そう思いたいから。

 

どうしてこの子だけいつも、その場の主人公になってしまうのだろう。

そして、どうしてこの子は、うさんくさい物語も、本物の実力も、そのどちらをも兼ね備えているのだろう。

きちんと努力をしているならば、それだけにとどめていてほしい。

 

円のことをずるいと腐すためには、円は悲しみの演技でしか力を発揮してはいけなかった。(中略) 愛や幸せに満ちた表現まで胸に響くならば、それはもう、紛れもなく、円の努力と実力なのだ。

 

これは私が好きな朝井リョウさんの「スペードの3」の一文です。

 

獲らなくてもいい理由が、売れなくてもいい理由が、認められなくてもいい理由が、思い浮かんだとき。

たぶんそれは彼らが「本物の才能」を持った人なんだと、私はいつもかなしくなる。

 

本物の才能を認めるときの恐怖。

 

いつか、私も、「あいつはなんか認めちゃだめな気がする」って、良い意味で粗探しされたいなと思うのです。

 

おめでとうございます、スーパースター。

日記のようなもの

小説読む時間削って、仕事のための本読んでるとき。自宅のパソコンのログインパスワード、間違えて会社のパスワード打ち込んだとき。オンライン会議で、偉いおっさんが喋って、画面に映し出された社員たちが、口角をにゅっとあげて笑ってるのをみたとき。私は死にたくなる。生きてる意味を見失いそうになる。

 

支店にいたとき、なんでみんなそんなにやる気ないのって思ってた。必要以上のことは覚えようとしない。自分の仕事はここまでと線を引く。だから頑張った。人一倍仕事を覚えたし、自分の仕事以外のことも覚えた。効率化するために改善策も考えた。

 

そうして、運良く、本部へ異動した。

 

そこには私より遥かにレベルの高い人たちがいた。私がやろうとして、できなかったレベル上げを当然のようにしていた。焦らなくていいと言われた。実際、焦って詰め込んで折れたことがあったから、たしかにと思った。

 

みんなきっと仕事が大好きで、仕事が一番で、レベル上げを好んでしていて、だからたくさん残業している。私は定時で帰る。今度は、私が「やる気のない社員」なんだろうか。私が散々「なんでそんなにやる気ないの」と蔑んできた、あの人たちのように、本部の人には、私がそういう風に映ってるんだろうか。やる気のある、なしって、やる気の度合いが勝った側の尺度で決まるのかも。

 

勉強しない人たちだらけだったら、1時間勉強した人はやる気がある。でも3時間勉強する人がいたら、1時間しか勉強しない人は、やる気がないって思われる。質とか中身とかいう問題は一旦置いておくとして。

 

だったら。

 

ああ、たぶん違う。全ては結果だ。

 

残業しないで1億売る人と、60時間残業して1000万円しか売れない人。どっちがやる気があるかなんて明白だ。

 

結果が全てを凌駕する。そんな、どうしようもない結論が出たので、今日の日記のようなものは終わりにします。

 

でも、あれですね。どうでもいいことにこそ、無駄なことにこそ、価値が宿る人生で在りたいですね。過程が大事、とは言わないから、死にたくなった夜だけが、人生の価値だといいな。

「残酷」という概念を説明するとすれば

今日はこちらに参加してきました~。

 

【3/19(日)13:00〜】ファナティック読書会〜ゲーム・オブ・ファナティック〜テーマ「胸が苦しくなるほどの別れ」を思い起こさせる1冊/本の紹介でいかに得点を重ねられるか!?ゲーム形式の新しい読書会!持ち越しポイントを集めてチャンピオンを目指せ!《天狼院書店の読書会/初めての方大歓迎》 https://tenro-in.com/event/292256/

 

テーマ「胸が苦しくなるほどの別れを思い起こさせる1冊」

 

わりかし自由形よりテーマがある読書会が好きなのですが、天狼院さんの読書会は毎回テーマ選びが素敵で、お金払ってでも参加してしまいます。あと、カフェ併設の店舗でできるので環境がばちくそに良い。

 

私は綿矢りささん勝手にふるえてろを紹介させてもらいました。

 

何のテーマを出されてもだいたい綿矢りさの作品で返せるくらいには、私は綿矢りさ先生が大好きで、天狼院さんの読書会では、何度か紹介させてもらっているのですが、

今日本を取り出した瞬間に、ほかの参加者からこぼれ出た「うわ、でた、綿矢りさ」の声。

 

そうです。綿矢りさです。本当にすみません。

 

「胸が苦しくなるほどの別れを思い起こさせる1冊」ということで、つらくて、苦しい、恋人との別れ、家族との別れなど、いろいろ考えましたが、

 

 

「どうして私のこと”きみ”って呼ぶの」

 

イチは私が大好きな、はずかしそうな笑顔になった。

 

「ごめん。なんていう名前だったか思い出せなくて」

 

 

あ゛~~~~~さ゛い゛こ゛う゛っっっっ

 

私にとっては、このシーンが、人生で一番、思い出に残っている失恋=別れだったので、ファナティック(熱狂的)に語れるんじゃないかと思って選んだ次第です。

 

残酷という概念を説明するとしたら、私はこのシーンを挙げると思います。(残酷という概念を説明するときなんて来ないので大丈夫ですよ)ずっと片思いしてた男の子と初めて2人きりで喋れた。しかも話してみたら趣味も同じ。え、いい感じじゃない?となったところで、奈落の底に突き落としてくれる、安心安全信頼の綿矢先生。どれだけ性格が悪かったら、この展開が思いつくんだろうか(しぬほど褒めてます)と、読んだ当時は何度も頭を抱えました。

 

長く付き合って別れるよりも、信じてた人に裏切られるよりも、

片思いしてる人と初めて2人きりで話せたときに、「きみ、なんて名前だっけ」って

言われることにエクスタシーを感じるんですよね。ありがとうございます。

 

紹介のあと買いたいって思ってくれた方が挙手してくれるシステムの読書会なんですが、男性の方がポイント入れてくれたのが嬉しかったです。

初めて他会場と通信しましたが、福岡の方みんな紹介が上手でびっくりした・・・。話し方が柔らかい方が多くて見習わねば・・・となりました。

 

最終的な投票では、山本文緒さんの「無人島のふたり」に票が集まっていました!テーマにぴったりで、私もこれに入れました。

 

次は「新社会人だった自分に読ませたい一冊」だそうです。

何の本にしようかな~。

 

【4/2(日)13:00〜】ファナティック読書会〜ゲーム・オブ・ファナティック〜テーマ「新社会人だった自分に今の自分が読ませたい1冊」/本の紹介でいかに得点を重ねられるか!?ゲーム形式の新しい読書会!持ち越しポイントを集めてチャンピオンを目指せ!《天狼院書店の読書会/初めての方大歓迎》 https://tenro-in.com/event/298268/ 

 

男が書いた小説を読んで吐いたことがある。

正確には、男の描く「女」に、頭痛がして、途中で読むのをやめた。

 

世の中には2パターンの人間がいて、

自分をとりまく世界は、つらいことや、苦しいことばかりだけど、どこかに希望が転がっていると信じてる人と、

自分をとりまく世界は、基本的には平穏だけど、どこかに、どうしようもなく、目を背けたくなるほどの暗い現実が必ず存在すると疑わない人。

 

前者のほうが楽観的で、後者のほうが悲観的なように見えるけど、実は反対なんじゃないかと思う。

 

目に見えないものを信じるのが夢見がちな女で、

過程や感情よりも、結果や論理を重視するのが男のような通説があるけど、

実際は逆なんじゃないかと思う。

 

男のほうがよっぽど運命や希望を信じたがるし、

女のほうがよっぽど現実的なことに目を向けたいんじゃないかと思う。

 

佐藤正午原作の「月の満ち欠け」という映画を見ました。

 

普段は女の描く作品しか見ない私なのだけど、ちょっといろんな視点から物事を見てみたくなって、普段見ない映画に挑戦した。「月の満ち欠け」を見る前日に、アニー・エルノー原作の「あのこと」を見た。

 

やっぱり、女の描く作品には、共感できるし、没頭できる。だけど、男の描く作品は、どこかずっと他人事というか、その作品に入り込むというより、ずっと線を引いて俯瞰的に見てしまう。これは私が女だから当たり前なのだけど。

 

ああ、男ってこんな風に女が見えているんだ、と。

 

現実の女は、傘を貸してくれた男に、「優しいんですね」と言って去っていかないし、男がもう一度会いたいと願った女と再会したその日に、ほいほい家にあがりはしないし、なかなか手を出せないでいる男に、キスをしたり、そのまま服を脱ぐようにせがんで自分からベッドに入ってくれたりはしない。ましてや、そんなことをしてくれる有村架純はいない。

 

笑いそうになった。

 

作品をばかにしているわけじゃない。これはほんとうに。

 

ただ、女という生き物に、男が望むことの、現実の見えてなさというか、少女漫画の展開を真に受ける女を馬鹿にするのと同じ感覚なんだと思う。

 

そういえば「明け方の若者たち」も、そうだったな。

 

あなたがいればなにもいらないよ、という空気を纏い、かと言って完全に自分のほうを振り向いてくれなさそうなミステリアスな雰囲気。それは、女が既婚者だから、ただそれだけ。やっぱり男の人ってNTRが好きなのかな。月の満ち欠けも、人妻だったし。

 

雨に濡れて困っていて、傘を貸せば「優しいんですね」と言って去っていってくれて、自分から好きです、会いたいですとは言ってこないけど、機会は用意してくれて、家にあるもの(それはペットなのか、本なのか、絵なのか、写真なのか)を見たいなと言ってくれて、会った初日に家に上がり込んでくれて、一歩踏み出せないでいると、自分からキスをしてくれて、「あなたと居られれば何もいらない」と言ってくれて、君の喜ぶ顔を見られるならどこへでも連れていってあげるという台詞からは、するりと抜けて、自分の手中にはおさまってくれない人妻の有村架純。もしくは、自分が口説いて落としたと思っていた彼女が、実は裏では「私のほうが彼が好きだったの、内緒よ」と娘に話す柴咲コウか。

 

これが、私が、男が書いた小説を読めない理由のすべてだと思う。これが悪いとか、悪くないとかではなくて、「男に都合よく書かれる女が、気味が悪すぎる」という解釈に過ぎず、これは作品に対する賛辞でもあるので許してほしい。

 

だけど、私は、物凄く貴重な体験をしているような気もする。誰かにとって、一生忘れられないような映画のシーンを、誰かの価値観の根底に鎮座するような作品を、驚くほど、冷静に、俯瞰的に見られている。

 

私の人生のバイブルになってる小説や映画も、ほかの誰かが見たら、滑稽すぎて、笑えてくるのだろう。

 

他人事として、客観的に見るか、自分事として、没入して見るか、それは作品と自分が、

世界のどこかに転がっている、一筋の光を探しているのか、

世界のどこかに転がっている、目を背けたくなるほどの暗い現実を探しているのか、

そのどちからということによるのかもしれないなということを考えていました。

私は完全に後者で、

私の人生は、どうしようできない現実を目の当たりにするためにあり、それをどうにかするためにあり、だけど結局すべてのことはどうにもできないという最悪を知るためにあるのだと思っているタイプのひとです。

 

よくわからなくなってきたのでおわりにします。

キングオブコント2021個人的感想

※個人的見解です

 

今年は空気階段がとるだろうと思っていたけど、なぜかあの赤いジャケットを着て、トロフィーを持っている2人の姿を想像することをしなかった。

 

だから優勝して、あの赤いジャケットを着ている人を見て、あまりに似合わなくて、彼らがこれまであまりにも「成功」という言葉から遠いところで戦い続けていたことに気付いた。

 

たぶんそれは彼らがお笑いにおいて、人生において、「負けている役」みたいなのをしているところを私が見ていたからだと思う。空気階段って私にとってはそれだけ「負け」が似合う人たちだった。

 

所謂社会不適合者で、陰キャで、人生があまりうまくいってないようなキャラクターが好きだった。なんとなく自分と重ねられる存在の2人が、それでもただ面白いことをやっているのがずっと羨ましかった。人生を上手く進めるための能力を、お笑いに全振りしちゃた2人を見てると、自分の得意なことを活かして生きるのっていいなって、そう思える数少ない存在だった。

 

空気階段のコントが面白いのは知っていたんだけど、1本目の火事のコントは初見で、去年の何倍も面白くて、ただただテレビの前で泣いてしまった。

 

ああ、優勝しに来たんだ。ついに彼らが優勝するステージが用意されたんだと、そう思った。神様は空気階段を見捨てなかったんだ。

 

去年、「恋の尊さを伝えたくて」と水川かたまりが言った。

 

M-1は、その日に爆笑を搔っ攫ったやつが勝ちだ。そこに古参も新参もラストイヤーも関係ない。

 

だけど、私はキングオブコントにおいては少し、ほんの少し違うと思っていて、「優勝しなきゃいけない理由」が強い人たちが優勝してくれたらいいと思う。

 

2人の「これがラストイヤーになると思います」が、私には「もう限界です」の意味に聞こえた。

 

そうだろうなと思った。

 

去年も、一昨年も、きっと私が知らないだけでキングオブコント以外でも、勝てるチャンスをいくつも逃して

きて、人生もうまくいかなくて、そりゃ限界に決まっている。

 

だから2人が優勝してくれたらいいなと思った。優勝しなきゃ、あの2人はきっと負けたまま終わってしまうのだろうなと思った。そこがニューヨークやマヂラブとは違った。私はニューヨークが好きなんだけど、いい加減、社会不適合者の2人に、「成功」の王冠をかぶってほしくなった。

 

うけてくれと祈っていた。ほかのコンビがうけないでくれと祈っていた。

 

それでだ、あの1本目だ。

 

そんな祈りなど、一瞬でどうでもいいものになってしまった。

 

1本目をやり終えて、墨のメイクで体中を汚した2人が、ずっと、うまくいかない人生の中で、もがいて、限界で、それでも戦い続けてきた様と重なった。

 

2本目も、ほかのコンビの追随を許さないテーマの異色さと、仕上がりと、2人の人生が色濃く反映されていて、文句なしの優勝だった。

 

去年、「恋の尊さを伝えたくて」と水川かたまりが言った。

 

社会不適合者でも、見た目が良くなくても、借金があっても、離婚していても、人生が上手くいかなくても、それでも心から好きなものがあればそれを信じている人は素晴らしい。空気階段のコントはそういうメッセージをいつも含んでいるから、私は好きです。私にとってはそんなキングオブコントでした。

 

最後にすばらしい審査員の皆様があってこそ、伝説の回になったのだと思います。空気階段の優勝を決めたのが、このメンバーで本当に良かった。